郡山城 | 大和郡山市ホームページ
大和郡山は大阪や京都へも近く、昔から軍事や政治の要衝でした。この地を治めようと有力者たちは争いを続け、江戸時代、郡山藩には常に有力大名が配されていたのです。大和を統一した筒井順慶が郡山の地に城を築く。 村々に発生した地侍を次々と支配下に置き、大和を統一したのが筒井順慶です。順慶は織田信長を後ろ盾として天正四年(一五七六)に大和支配を成し遂げ、天正八年(一五八〇)に郡山に入城しました。順慶入城の直前から、郡山一体には市場が形成されてにぎわいを見せていましたが、この地にさらなる繁栄がもたらされたのです。順慶には今も語り継がれるエピソードがあります。天正十年(一五八二)に本能寺の変が起こり、親しかった明智光秀より洞ヶ峠に出兵を促されますが、順慶は悩み、結局動かず日和見を決め込みます。これを「洞ヶ峠をきめこむ」といい、旗色の良い方につくという悪い意味での言葉として残ってしまいました。豊臣秀長の施策によりまちはおおきな発展を遂げる豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後を引き継ぎ、天正十三年(一五八五)に郡山城に入城しました。秀長は、優秀な実務派であり、秀吉の参謀役として数々の功績を立て、郡山に入ったときは、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有しました。秀長の入城後、郡山は政治的、経済的に大きな意義をもつようになります。百万石の領主にふさわしい城郭を構築するとともに、箱本十三町といわれる新しい自治制度を始めました。奈良での商売を一切禁止し、近隣の町からも商人・職人を呼び寄せるなどして商業を郡山へ集積させました。そして様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は五十一歳で死去し、在任期間は六年余りという短い期間でした。大和郡山市には、筒井順慶や豊臣秀長ゆかりの社寺をはじめ、縄文から弥生時代にかけての遺跡、大和朝廷が成立したとされる四世紀頃の古墳、平城京の一部であった羅城門遺跡など数々の遺跡が残されており、いずれもロマン漂う大和郡山の歴史を物語っています。金魚や養蚕を持ち込み、繁栄をもたらした柳沢吉里豊臣秀長の没後は、水野勝成や松平忠明、本多正勝など領主が目まぐるしく変わりました。そして江戸時代、郡山繁栄の立役者として活躍したのは柳沢吉里です。吉里は、貞享四年(一六八七)に柳沢吉保の長男として江戸上屋敷に生まれました。宝永六年(一七〇九)、吉保の後を継ぎ甲斐守として甲斐城主となり、その
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